アムウェイに勧誘されて、思った事【MLM】
ドラマ池袋ウエストゲートパークの主人公、マコト。
劇中でマコトの母親がハマっていたのが、他ならぬマルチと呼ばれるネットワークビジネス、ねずみ溝。
まぁ、説明せずとも理解してもらえるでしょう。自分が紹介して、商品を買ってくれれば買ってくれた代金のうちの何%かを、自分に紹介してくれた人に献上するという、そんなシステム。
ぼくも勧誘された事があって、場所はたしか渋谷のカフェだった。
Facebookを通じて美女から連絡が来たかと思えば、、、男って、ほんとばか。
ぼくより二歳年上の当時二十五歳の美女。
会っていきなり聞かれたのを覚えている。
「○○くんって、夢はあるの?」
初対面の相手に聞くような質問でないのは普段空気の読めないぼくでも理解できた。
「夢……どうだろう」
「夢はもったほうがいいよ!私の夢はね、アメリカにでっかい図書館を作ること!」
なんとも大層な夢だ。
ぼくは思わず「すごいね」と声を漏らした。
「じゃあいままで海外とかには結構行ったりしたの?」
当然の質問。
「んーん。まだ行ったことないんだ、海外」
なんでもなさげに彼女はいった。
「えっ……。でも、アメリカに図書館は作りたいんだよね」
「うん!」
あまりに彼女が堂々としてるので、ぼくはなんとなしに彼女の話を聞いていた。
その合計時間、おおよそ45分。
超要約すれば、不労所得を得よう!
という、そんな話を彼女はぼくに、したのだった。
そのあとぼくらは別れた、駅まで送ろうかと言ったら、断られてしまった。
別れた後、執拗に何らかのパーティーへの勧誘の連絡が来るのでラインはブロックさせてもらった。
……まぁべつに、マルチをやるやらないは個人の自由だから、人に強制さえしなければ、ああだこうだと文句をつける理由もない。
ただ。
話を聞いていて思ったのは不労所得を得る事を、夢を叶えると表現するのは、ちょっと違うのではないかという、そんな事だった。
汗水流して働いて、お金を貰う。
こんなにすばらしい事が、この世にあるだろうか。当たり前の話だ、ギブアンドテイク。ギブをするから、テイクがある。
働く男の汗って、やっぱカッコいいじゃん。
それをぼくは、否定したくない。
まぁ、不労を得るための労働をしようという話なのだろうけど、まぁ、なんだろう。哲学とかポリシーの違いなのだろうと思った。
ぼくと彼女は、意見が合わなかった。
大学を留年した苦しみには、じき慣れる
大学を過去、数度留年した。
しかもぼくには浪人経験もあるので、同年代の人間と比べて色々と遅れているのは自覚している。
働き始める年齢とか。つまりはそういうもの。
ぼくのブログを読んでくれている数少ない読者さんの中には、過去留年経験のある人、もしくはこれから留年する人もいるかもしれない。
安心してくれ。
留年にはじき慣れる。
留年にはじき慣れる
留年が決まった直後、もしくは留年するかもという、そんな気配が感じられる進級数ヶ月前、自然と「死にたい、、、」と口に漏らすようになっていた。(この経験以来、死にたいはぼくの口癖だ)
留年の旨を親に伝えて、同級生は卒業していく、、。その時は確かに死にたいし、親からは卑下の目で見られた。
しかし、4月。
単位数の問題で、あまり学校に行く必要の無い一年間。つまり好きなことが出来るわけだ。
そういう考えに至った時、ぼくは「もしかしたら留年は幸福な事なのかもしれない」とそんな風に思うようになっていた。
留年は幸福なこと
どうせ人はいつか死ぬのだ。
若い頃の数年ぐらい、どってことはない。
むしろ数年好きなことが出来るぶん、得をしたいると、そんな風にも考えられる。
留年して得られるもの、それは時間だ。
時間がある、何をしてもいい。
バイトをしても、小説を書いても、格闘技を始めても、寝ても、ゲームをしても、インターンに行っても、恋をしても。それこそーー、無駄しても、いいのだ。
おばあちゃんが死んだときも、時間の経過で悲しみは薄れていった。
慣れとはつまり、そういうもの。
やっちまった後に、どう生きるか。
若い頃は、そう長くない。
……いや、何の慰めにもならないだろうけど。
とにかく、生きることを頑張ろう。
文章・小説が持つ再現性の高さについて
ドラえもんを、AくんとBくんに描いて貰うとする。
二人とも使うのはHBの鉛筆。
描かれるのは同一のキャラクター。
ふたりの前には、ドラえもんのモデルを置いておく。例えば原作43刊の表紙とか。
でも、描かれたドラえもんは、絶対に少し違ってくる。目の大きさとか、身体の大きさ、他にも色々と。
絵で、まったく同じものを書いたとしても、そこで再現性は発揮されない。絵とはつまり、そういうものだ。
しかし、文章は違う。
東野圭吾氏の小説を読みつつ、全く同じように模写する事は簡単だ。それが乙一氏でも、西尾維新氏でも、吉本ばなな氏でも、変わらない。
あ、と打てば、あと書ける。
純度100%の再現性。
つまり。
なにが言いたいかというと、ぼくは作家になれると思う。
書くべきは、どこまでいこうと、ただの文字なのだから。同じ人間、そこまで圧倒的な差があるとは思わない。
それが売れるかどうかはともかくとして、抽象化したそれぞれの作品の良い所をちゃんと理解して、自分の作品に生かす事が出来ればーー。物は出来上がる筈だ。
そう、問題は評価してもらえるか。
読み手に、人に、友達以外の第三者に。
自分が良ければそれでいいだなんて、そんな風にはぼくは思わない。
アイドルは恋人を作るな!
ダメだろ。
というのがぼくの答え。
そう考える理由を語っていこう
アイドルというイメージを保ち、夢を与える事=愛される事が、アイドル(偶像)の仕事である
女優の仕事は演じること
歌手の仕事は歌うこと
では、アイドルの仕事は何だろう。
アイドルの仕事とは、つまり、崇拝対象、憧れ、そして愛される事だと思う。
よく聞くセリフだが
「○○選手は、自分にとってのアイドルだったんです」
↑のようなセリフは、スポーツの試合後に勝った選手が対戦した相手について語る状況などで、使われる事が多い。
つまり、誰でもアイドルにはなりえるという事だ。憧れてくれる人がいるならば。
理想の女の子、理想の彼女として、崇拝される対象となる事ーー、それがアイドルの仕事だと思う。
だって、女優や歌手のような特別なスキルが必要とされる仕事ではないワケで。(プラスαにはなる)
だからこそ、愛され属性を大切に必要がある。ではその愛すべき対象に、彼氏がいたら? 夫がいたら?
……愛せるかもしれない。でも、愛せないかもしれない。
プロであるなら、そこに不確定要素は要らない筈だ。より研ぎ澄まし、ナイフのように尖る必要がある。
以上の理由で、ぼくはアイドルは恋人を作るべきではないと思う。
作るなら、完璧に隠すべき。
隠したままーー、アイドルを引退すべき、だ。
企業説明会に、生まれて初めて行ってきた
応募欄には確実に私服可と書かれていたのに、今日私服だったのはぼくだけだった。
……トラップか?
【化物語】阿良々木暦の高校生活ーー完結【終物語】
つい先日、アニメ物語シリーズが、一応の完結を見せた。
阿良々木暦の高校生活は、一応の終わりを迎えたのだ。
ぼくが「化物語」を最初見たのは、高校二年生の頃だった。
独特な雰囲気なアニメだなーと、そんな感想を抱いたのを覚えている。
たしか当時、けいおん!とか、レールガン、あとはひぐらし?などが流行っていたのかな。
シャフトの謎にお洒落な演出に、延々と続く会話劇、そして強く立っているキャラクター。
あらゆる意味で、新鮮だったのだ。
そしてアニメは「化物語」では終わらない。
どんどんと、まるでパズルを繋ぐように話はアドリブ気味に続いていく。聞いてみれば、原作の作者である西尾維新先生はプロットを作らないらしい。
そしてやっと、とりあえずの終わりを迎えたのだ。
そのタイトルが「終物語」
阿良々木暦が一体何で出来ているか、それを探る物語だ。
八年近くも見ていると、なんだろう、、、ちょっと感慨深いものがあった。
もうぼくも25歳。
もう充分に大人と言える年齢だ。
アニメや漫画の主人公たちの年齢を、追い抜き追い越しする感覚。何度経験しても、慣れないものだ。
もう、鬼塚栄吉は年下だし、ぬ〜べ〜は同い年だし、、、。
絵だとういう事は分かっているけれど、そらでも。漫画の中の彼らみたいになれていない現実に、ぼくは悶えている。
ぼくらが戦うべきは怪異ではなく、現実なのだ。
天使は奇跡を希う【書評】※若干ネタバレ
可愛らしいアニメ調の表紙に、読みやすい気軽な文体。
気軽さとはつまり、軽薄さであり、読みやすい反面重厚さに欠けるというのが、一般的な考え方なのだろうがしかし。
この作品において、その心配は一切無用だ。
著者の名前は七月隆文先生。
前作は有名なぼくは昨日、明日のきみとデートする、で映画化もされた。書店だけでなく、コンビニなどでも売っているくらい名が知られた作品となった。
実は昔は七月先生は、コテコテのライトノベルを書いていた過去があり、その時の経験から、現在の文章の軽やかさを手に入れたと言われている。
さて、書評。
まず前半と後半で物語の持つ意味ががらりと変わってくる。
前半は良史という名前の少年を主人公とした、星月優花の為に過ごす日常の話であり、後半は星月優花を主人公にした、良史の為の物語である。
前半、つまりは良史パートはちょっと退屈かもしれないが、優花パートに入ってからはページを捲る手が止まらなかった。
最後の締めもキレイ。だが、それをご都合主義と言う人もいるだろう。
でも、この物語の良さはそこにあると思う。
帯にもあった七月先生の言葉。
『ぼく明日』を楽しんでくれた人達が私に期待する新作は、どんなものであろうと。
「ラブストーリー」であり「秘密」があって、「それが明らかになったとき、はっと印象が変わる筋書きのようなもの」ではないだろうか。
だから『天使は奇跡を希う』は、そういうお話です。
まさにその言葉通り、それまでの物語の意味ががらりと変わる、その瞬間を、そしてその物語がどうなるかを楽しむ。
それがこの本の楽しみかたなのだろう。
ニコニコ動画ニコ生マジでオワコン説
寝る前にニコ生を見るのが習慣となっているぼくなのだが、最近巷で話題になっているのがニコ生マジオワコン説である。
なにがオワコンなのかと言えば、単純に人が居なくなったという事実につきる。
リスナー、配信者共にめちゃめちゃ数が少なくなった。それはデータとして、証明されている。(データは自分で調べて下さい)
それはどうしてか?
そしてここからどうすれば、オワコン化を塞き止める事が出来るのか、考えたい。
オワコン化の理由
- 単純にニコニコ動画というものが見辛い。登録が面倒くさい。
- サイトが重い
- 他に配信サイトがたくさん出てきた
- 配信内容のループ化
- 金を稼ぎづらい
こんな感じか。ツイキャスなどのサービスに比べて、サイトが見辛く、また重い。
配信サイトもたくさん出てきた。ツイキャス、オープンレック、ふわっち、YouTube、、、。他にもたくさん。
そして古参配信者(例 横山緑)の配信内容がループ化により、飽きられている。
さらに金を稼ぎづらい。嫌儲の流れがあるのでお金を稼ぐ=悪といった雰囲気があるのだ。YouTubeなとでは、むしろ金を稼げることが魅力の一つとされているのにも関わらず、だ。
以上の理由から(もっとあるだろうが)ニコ生、ひいてはニコ動全体のオワコン化が進んでいると言えるのである。
オワコン化をどう止めるか
まず、サービスそのものを改善する必要がある。より軽く、より快適に。全てはそこから始まるのだ。
そして一つ提案したい。
プレミアム会員はなくさなくてもいいのだが、それでいいから登録せずとも放送を見れるようにしてほしい。YouTubeなどが既にそうだが、放送や配信を見るために会員登録が必要って、もう時代遅れだと思う。より広くたくさんの人に知ってもらう必要があるのだ。
さらに、お金を稼ぎやすい環境を整える。
まぁそれは、会社の大きさの問題もあるから、致し方ない部分もあるだろうが、、、。
あとこれはお願いなのだけど、TV化するのだけはやめて欲しい。なぜネットなのか、それを大事にして欲しい。そこがブレた瞬間が、本当の意味で終わりの瞬間だと思う。
キャラクター論《随時追加》
漫画とか小説を読んでいて、なんとなく続きが読みたくなるものと、そうでないものがある。
その差ってなんなんだろうなーって、昔から思ってた。絵は凄い上手いのに、何となくページを捲る手が止まってしまう。
それって結局、キャラの差じゃないかって、最近強く思う。
ページを捲って、何を見ているのか。
それは、その世界観において、そのキャラクターがどう動き、何を考えているか。
そこにカタルシスを覚えるし、興奮するし、感動する。
だからキャラクターを魅力的に見せる為に、イベントを挟むし、悩ませるし、苦しめる。
そこからどうするか、それを見たいから。
そしてそれは、現実でも同じだ。
キャラが立つ=認知されて、なおかつそのキャラクターが魅力的に思われている。
俗に言う有名芸能人が、それに当たるのではないだろうか。それが本当の人格かどうかはともかくとして。
それはページの向こうの彼ら彼女らが、例えば週刊誌だとすれば週一回しか活躍しないのと同じだろうから。
週休六日。目に写るものが、全てでしかない。あとは想像。いわゆる間とは、そういう事だ。
どんなストーリーよりも、演出よりも。
キャラが強い奴が、一番強い。
それはフィクションでも、ノンフィクションでも変わらない。
キャラが強いとは、魅力が強いという事だから。それが分かっていれば、いかにしてその魅力をコントロールするかが大事になってくるのだろう。
《関心度の高いキャラが動く
それがキャラの面白さ》
いや、コントロールなんて、出来ないか。
出来たらもっと、もっと違う筈。
人生とか、もっと、色々。