平成の振り返りと、令和をどう生きるか。そして30歳成人説
村上春樹という今さら説明するまでもなく日本で一番有名な小説家の言葉に、このようなものがある。
30歳成人説。
今現在、成人とされる年齢は20歳であり、もうすぐ18歳になるそうだ。20歳といえば現在のぼくより6年も前のことで、まるまる小学校を入学から卒業まで過ごせてしまうほどに長い時間の筈なのだけれど、それほどまでに昔のこととは思えない。よく使われる言葉ではあるが文字通りに、まるで昨日のことのように思い出す。
当時のぼくは、今よりずっと迷っていた。いや、今でも迷ってはいるのだけれど、そんな今よりずっと迷っていたのだ。当然道にではない、人生に迷っていたのである。
何をしたらいいのか分からない。そんな漠然とした、暗澹たる想いに常にとらわれていた。
中学時代からブラジリアン柔術という格闘技を始め、高校になるころにはそこそこ試合で勝てるようになった。しかし試合に勝ったところで特別見返りがあるわけでもなく、周囲の人もそれを当たり前として考えているようだった。ブラジリアン柔術とはそういうもの。今でこそ、昔とは少し違う立ち位置になったとは思うけれど、当時はそういうものだった。見ているだけでは何も分からない、やれば魅力も少しは分かるだろうけど、それでもやるまでのハードルは他のスポーツに比べて高いように思う。あくまで格闘技だし、人と絡み合うスポーツ(武道)だからだ。あくまで誉められたい、認められたいぼくにとって、柔術は少しだけ、大人のスポーツ過ぎたのかもしれない。それともぼくが若かっただけか。その両方か。
そしてぼくが至ったのは、他ジャンルに挑戦するという発想だった。今でいうMMA、総合格闘技だ。高校を卒業して数年やったが、その頃にはすでに日本格闘技界は斜陽を迎えていて、大きなイベントもほぼなかった。あってもDREAMくらい。でも正直、すぐ近い未来に潰れる気しかしなかった。
案の定、DREAMは活動休止となり、日本国内からはメジャーイベントは消えた。ぼくはこの頃にはほとんどやる気を失っていたように思う。
まさしくこの頃、どうしたらいいのか分からなかった。なにを目指したらいいのかも分からない、そんな時代だった。
たぶん、とにかく認められたかったのだろうけど、少しばかり出来るだけの格闘技じゃあそれは無理だった。そもそもチャンピオンクラスでも食えない人達をたくさん見ていたから、どんどんその道は無理だろうと考えるようになっていった。(怒らないでください)
それからは色々やった。一番迷走していた時期のようにも思う。しかし迷走していた中で、漫画家の先生のアシスタントのバイトをやった。これがよかった。やりたいことが見えてきた気がした。昔から漫画や小説が好きだったし、これを作りたいと思うようになった。
そこからは毎日こつこつ、ワードを更新する日が続いた。少しでもいいから毎日すること、それの大切さは格闘技から学んだことだった。
まだ受賞には至ってないけれど、だんだんと予選を通過出来るようになってきた。某小説大賞では三次落ち。某賞では二次落ち。つい先日も漫画脚本大賞というものに出した。近い将来、芽がでればいいと思う。漫画も小説も突然出来上がるものではない、毎日一ページずつでも更新することで、結果出来上がるものだ。
そしてなぜかこの頃にはまた格闘技が楽しくなっていた。たぶん、成り上がるとか認められるとかどうより、純粋に技術の向上だったりを目的としてトライすることが出来るようになったからだと思う。つまりは大人になったのだろう。6年ぶん。
それはたぶん、すべてそう。格闘技も、創作も、それこそ平成も。
平成は完結した。平成という時代は、なにげない1日1日の積み重ね。平成だけでなく、昭和も。昭和どころか大正も。その前もずっと。
だから間違いなく、未来もそうだと言い切れる。令和もそう、1日1日の積み重ねだ。
平成とか令和とか、そういうものにとらわれすぎず、1日1日を積み重ねる。自分の目標にむかってただまっすぐに。
そうやって生きて、いずれ死ぬときに。
自分の時代が完結する。
真に生きるべきは、昭和でも平成でも令和でもなく、自分の時代。そう確信している。
令和4年。ぼくは30歳になる。
その頃は今よりもっと、自分のやりたいことが明確に、そして今より結果が出せているように、その為に日々をしっかり丁寧に生きたい。未来は何が起こるか分からないけれど、いずれ死ぬ事だけは確定している。いずれ終わるから、その時まで。
クロン・グレイシーが背負っているもの
カサレスという選手相手に一ラウンドで一本勝ち。チョークスリーパーによる決着だった。
勝利した後、クロンの顔には笑みがあった。
それはたぶん、勝利したことそのものに対する嬉しさ、喜びもあったのだろうけど、それだけではない気がする。
ぼくの目には、プレッシャーからの解放による安堵感が強いように見えた。簡単に言ってしまえばホッとしているように
クロン・グレイシーという男。
背負っているものが多すぎるのだ。
グレイシーという姓の重さ
ある種、総合格闘技、バーリトゥードの礎にはグレイシーという名は欠かせない存在だ。
グレイシーというブランドは、今より昔、総合格闘技黎明期とでも呼ぶべき時代より有名になった。
彼らはそれまでの格闘技の概念とはまるで違う文化、伝統を世界へ、そして日本へと輸入した。
ざっくり言うと、寝技。
ポジショニングの概念だ。
いまでは当たり前のマウントポジションも、かつては時代の最先端。
ヒクソンにマウントをとられたら終わりーー。それくらい、柔術は斬新かつ、今までになかった技術だった。
ヒクソンの息子であること
PRIDE1で高田延彦と戦い、そして倒した伝説の格闘家。かつて初期UFCで活躍したホイス・グレイシーが優勝後に言った
「兄は私の十倍強い」という言葉を皮切りに世界に知られ始める。その後日本で行われたバーリトゥードジャパンなどのトーナメントで優勝。
400戦無敗の伝説の男。
クロンはヒクソンの次男なのだ。
あらゆるグレイシーの中でも最も求心力があり、最強と呼ばれていたヒクソンの息子。
兄、ホクソンの死
クロンはヒクソンにとっての次男である。兄ホクソンはクロン以上の天才柔術家と呼ばれていた。
そんなホクソンは、まだ若い頃に色々なアクシデントが重なり亡くなった。
クロンは柔術の試合で勝ったあと、着ていた道着の内側をはだけてキスをする。
最初は汗を拭いていたのかと思ったけれど、そうじゃないらしい。クロンは内側にホクソンの写真を印刷してして、そこにキスをしているのだ。
ブラジリアン柔術の代表的選手であるということ
クロンはブラジリアン柔術を代表する戦士と言ってもいいと思う。
グレイシー柔術という意味でもそうだけれど、クロンほどピュアに、昔ながらの柔術をMMAで使う選手をここ最近ではみない。それこそ実の父親であるヒクソンにも似たスタイル。関節蹴りからの胴タックルで、現代MMAの最高峰である、UFCで勝ち星をあげた人間など、他にはいない。
クロンが今回勝ったことで、ネット上では数多の柔術家たちが喜びの声をあけだ。
それはつまり、そういうこと。
クロンは世の柔術家を代表したーーというよりも、ぼくら世の柔術を嗜む人間たちが勝手にクロンに乗っかっている。乗っかられたほうはたまったもんじゃないかもしれないが……。
クロンは背負っている。たくさんのものを。
それはたぶん、グレイシーという姓に生まれたものの宿命というか、運命というか。
あるいは呪いにも似た何か、なのだと思う。
メイウェザー天心戦を見た、親戚の叔母が抱いた感想
早いもので新年を迎え、2019年となった。
新年を迎える前には大晦日があり、2018年がある。2018年の大晦日、格闘技団体RIZINで、あるスペシャルカードが組まれ話題となった。
それが那須川天心VSフロイド・メイウェザーjrのボクシングマッチである。
すこしでも格闘技を見聞きしている人ならば、いや、していなくてもこの組み合わせの異常さに気付くだろう。組まれた時点で色々とツッコミたいポイントはたくさんあった。
二人の体重差は?
メイウェザーのファイトマネーはいったいどこから出されてるのか??
ルールはいったいどうなるのか??
ほかにも多々、、、。
しかしそんな試合ではあれど、決まればワクワクはするし、やってれば見てしまうのが格闘技好きの性であり本質だ。結局そうなってしまった時点で、この試合が組まれた意味はあったのだと思う。例え結果がどうなったとしても。
大晦日、ぼくはテレビの前に釘付けだった。
なぜだかわからないけれど、緊張もしていた。天心はもちろんすごい選手だし、天才だとは思うけれど、向かい合っているのはボクシング史上、いやスポーツ史上最天才といってもいいメイウェザーなのだ。そんな人物の試合を見れるだけでも幸福と思うべきなのかもしれない、年越し蕎麦を前にそんな事を考えたりもした。
結果は残酷なまでに現実的で、一切のファンタジーがない、あるがままを見せつけられた。
天心は一ラウンドに三度のダウンを取られノックアウト負け。あんな風に足がもつれる天心を初めてみたし、心が折れる瞬間をみた、そんな気がした。泣きじゃくる天心をみて、ぼくの口からは思わず「エグいな……」という言葉が漏れていた。そう、エグかった。どうしようもなく。
試合前の煽りから、試合内容、そして負け方。負けた後の涙。もうなんだか、そういうドラマの一話を見せられているみたいで、現実味がなかった。だって相手はメイウェザーだぜ?? 現実味なんか無いにきまってる。
どこか呆然としたままRIZINの放送が終わり、新年を迎えた。テレビはそのまま、ジャニーズカウントダウンを見た。しかしぼくの脳裏からは天心の泣きじゃくる顔が離れなかった。残酷な現実は、幻想を破壊する。日本格闘技はある意味で、幻想を商売にしているところがある。ロマンとかストーリーとか、そういうのが大好きなのだ。だから選手のバックボーンを知りたがるし、煽りVが人気だ。
🎍
元旦の次の日。
ぼくは実家のある群馬へと戻った。
そこには親戚の叔父や叔母も来ていて、いいとしなものでお年玉を貰うこともせず、つまらない世間話に花を咲かせた。ぼくはずっとお茶を飲みつつ寿司を食べていた。
ふとしたタイミングで、叔父がいった。
「そういえば、大晦日の格闘技見たか?」
叔父はぼくが格闘技が好きだということを知っている。
「見たよ」
「アレすごかったなぁ〜。メイウェザー、やっぱ強いな」
メイウェザーがボクシングルールで強いのなんて当たり前なのだが、そんな当たり前をいざ目の前にすると、やっぱり驚いてしまうものなのだろう。叔父は酒も入り、どこか興奮した様子だった。
「な、一緒に見てて、すごかったよな」
と、隣に座っていた叔父の妻。つまりはぼくの叔母へ語りかける叔父。話しかけられて叔母はすこし、静かになった。そして
「……可哀想だったわ、あの子」
と言ったのだ。
叔母のシンプルすぎる感想に、ぼくは驚いた。しかしその感想は、なにより素直なものに思えた。素直でもっとも尊重すべきもの。ふだん格闘技を見ない叔母だからこそ言うことの出来る、可哀想だという感想。
格闘技をすこしでも知っている人は、可哀想だとは思わないだろう。ルールをお互い把握して、お互いに倒せると思っているからこそ向き合っているのだ。闘犬とは違う。闘わされているわけではない。あくまで自分の意思で、リングの上に立っている。
だから可哀想だとは思わない。
好きな選手なら残念だとは思うけれど、それだけだ。それだけの話なのだ、勝ち負けなんて。
しかし叔母は可哀想だといった。
「あんな泣いて……大人の都合で、振り回されて」
天心は恐らく、大人の都合で振り回されたわけではないと思う。いや、もちろん多少はあっただろうが、それでと本人は勝てると思っていただろうし、倒せると思っていただろうし、そういった旨の発言だってしていた。
だから可哀想だなんていうのは、本当なら、罵倒より酷い侮辱なのだと思う。同じ目線でみてあげていない。はじめから天心とメイウェザーを、同格として扱っていない。
叔母はその発言を、悪意なく言っている。天然で侮辱めいた発言をしていることに気付いていないのだ。
……しかし、ぼくはすぐに気付いた。
叔母の年齢はもう五十歳にもなる。
天心は二十歳。
つまりは叔母は、天心を子供として扱っているのだろう。負けた後の泣き顔も、それに拍車をかけたのかもしれない。
別に馬鹿にしているわけじゃない。
ただシンプルに。素直に。天然で。
叔母の目には子供を虐める大人ーー。としてメイウェザーが映っていたのだろう。
ぼくとは違う、天心メイウェザー戦の感想。
こういう捉え方もあるのかと、ただただ素直に思った。
天心と歳の近い、ぼくの思うこととは違う。
可哀想だなんて、思えない。
そんな残酷なこと、思わないではなく思えない。と、新年早々考えたのだった。
菅田将暉もおすすめの勝浦式タンタン麺がめちゃ旨辛だった!【じもん】
いつかの火曜サプライズ(テレビ番組)が、菅田将暉出演の高円寺特集だった。だからというわけではないけれどなんとなく番組を見ていて、美味しそうなラーメン屋が紹介された。いかにも辛そうな赤色と、上にまぶされたニラの緑色が良きコントラストとなっていいていかにも食欲をそそられるラーメンだった。
いや、ラーメンというか、タンタン麺だった。
勝浦式の、タンタン麺だったのだ。
用事を済ませ、高円寺へ帰還すると時刻はすでに十二時をまわっており、今日というより明日の時間。夕飯はまだ食べておらず、深夜だというのにこってりしたものが食べたいという衝動にかられていた。
普段ならこういう時は中野まで自転車をとばして武道家という家系のラーメン屋へ向かうのだけれど、正直最近は行きすぎていて、飽きた感もあった。だから違うお店、出来れば行ったことのなにラーメン屋へ行きたかった。
そんな時に、ふと思い付いたのが、いつかの火曜サプライズで見た【じもん】の勝浦式タンタン麺である。
平日の深夜だからか、店に人は並んでおらずスムーズに入店できた。狭いというか細長い店内には、漫画本が数シリーズ置かれていて、いかにもなラーメン屋らしさを感じさせた。
店の前はこんな感じ。
夜中なので人は並んでなかったけど、日中はわりと行列ができている。
店内に入り、券を買うときに張り紙が貼られていることに気づく。そこには勝浦式タンタン麺にはライスが非常にあうと書かれていたので、夜中だったけど注文。後悔はしていない。
数分待ち運ばれてきたのがこれ。
チーズのトッピングを選択。チーズはたっぷりだった。
辛さを自分で選ぶことができて、ぼくは2辛を選んだ。なかなか辛くて咳き込んだりもしたけれど、味はおいしい。そして慣れてくるとそんなに辛くも感じない。むしろもっと辛くてもいいと思ったぐらい。次は3辛かな。
スープをごはんにかける。これがめちゃうまかった。ごはんの為のスープといっても過言ではない。いやそれは言い過ぎか。とにかく旨かった。その感想に嘘偽りはない。
そら菅田将暉もこんな顔になりますわ。
リピート確定!
ダイエット明けに食べる飯
この二ヶ月ぐらい、ずっとダイエットをしてきた。ダイエットの内容としては、基本的に飯を食う量を減らすというシンプルなもの。あとはあんま米を食べないようにしていたけれど、でもポテチとかアイスは食べていたから、米食って余計なものを食わないようにしたほうがむしろ良いかもしれない。むしろ。
さてそれで二ヶ月が経過した。
一応ゆるゆると体重は落ちてきていて、目標としていた体重を記録。
リバウンドするといけないから、無闇やたらな暴飲暴食は避けなければならないのだけれど、それでも目標を達成した初日ぐらいは無茶苦茶な飯を食べてもいいだろうと←(デブのもと)、その日の夜中、家系ラーメン屋へと突入した。
(イメージ図)
家系ラーメンが昔から好きで、食べ方には並々ならぬこだわりを持っている。まず麺は絶対に固めだし、スープも濃いめ、そして油も多目だ。
しかし家系ラーメンを楽しむ為の核は、そこにはない。ライス、ライスだ。ライスをいかに美味しく食べるかが、むしろ家系の全てといってもいい。
にんにく、豆板醤、しょうが、スープ、のり。それぞれをミックスさせて食べるライスは最高に美味しいの一言に尽きる。
……尽きるのだけれども、なぜだろう。
少したべたら「もういいかな」なんてなっているぼくが居た。
二ヶ月のダイエットで胃が小さくなったのか、それとも、これを美味しいと感じていた以前の自分の舌がイカれていて、正常に戻ったということなのか?
わからないけれど、正直最初の一口めぐらいしか、心のそこからの美味しい!という気持ちには達する事が出来なかった。なんならこの満足感は、家で牛丼並のお持ち帰り弁当を食べた時と同じぐらいだ。普通に美味しいというか、まぁまぁというか。両手をあげて「最高!」と叫ぶほどのものではなかった。
その感覚に、寂しさを覚える。
これが大人になるということなのかーー。なんて。いや、そんなわけはないけれど。ただ家系ラーメンに対し以前のような満足感を覚えることが出来なかっただけで、どれだけ高尚なお話しにするつもりだと言われてしまうかもしれない。
でも、寂しかったのだ。
満腹だからという理由ではなしに、麺を啜る手が止まるぐらいには。
そんな事を夜中のラーメン屋で考えているのは、たぶん都内でもぼくぐらいのものだろうけれど。
最近見た映画の中で一番面白かった、「セッション」という映画について
アマゾンプライムで一際評価の高い映画があったので見てみることにした。
それが表題にもある、「セッション」という映画である。
ぼくは普段、面白いという事に対するハードルが凄まじく低い。美味しいというものに対するハードルも低く、女の子に対し可愛いと思うハードルも低い。
あらゆるハードルが低い人格で、だからこそわりと何でも楽しめてしまう。
それはある意味で安上がりだし、生きていくうえでも得をしているーーとも思う。
しかし、そんなぼくでも
「あぁ、これは他の映画とはモノが違うな」と思える映画はたまにあって。
それが、今回紹介する「セッション」という映画である。
あらすじ
名門音楽学校へと入学し、世界に通用するジャズドラマーになろうと決意するニーマン(マイルズ・テラー)。そんな彼を待ち受けていたのは、鬼教師として名をはせるフレッチャー(J・K・シモンズ)だった。ひたすら罵声を浴びせ、完璧な演奏を引き出すためには暴力をも辞さない彼におののきながらも、その指導に必死に食らい付いていくニーマン。だが、フレッチャーのレッスンは次第に狂気じみたものへと変化していく。
(シネマトュデイより引用)
映画全体の時間は約一時間半と、あまり長くはないのだけれど、それよりもっと短く感じた。短く感じるということは、つまるところ内容が詰まっているという事の証明でもある。
詰まっている人生ほど、短く感じると同じで内容のある映画ほど、あっという間に終わってしまう。
この映画、初めから終わりまで、落ち着くところがない。ずっとハイペースで物語は進んでいき、そのペースをキープするどころが、最後の九分十一秒に関しては、さらにテンポアップするのだ。
そう、ラスト九分十一秒。
それがこの映画の核となる部位である。
そのラスト十分弱のために、これまでのストーリーはあったといっていい。
主人公はぼろぼろに、打たれつくし、もうだめだ、これで終わりだという、その時。
そういうタイミングでこそ、才能の神様は微笑むのだ。そういう意味で、才能というやつはすごく残酷だし、刹那的で、保ち続けるのが難しいものなのだと思う。
最初は無自覚的に、周りだけが気付く。
才能を持っている人間は、その才能に気付くことをせず、ただ発揮する。
現実でもそうだと思う。
例えば自分の子供に特別な才能があることに、一番最初に気付くことが出来るのは、子供本人よりその親だろうし、先生だろうし、大人だろう。そういう意味で、才能はそこにただあるだけじゃ磨かれない。
誰かに見つけられて、育てられて、初めて形になる。宝石の原石とかと、そこに至るまでの過程は一緒なんじゃないかなと思う。
一見すると路傍の石コロ。しかし見る人から見れば、才能の塊ーーみたいな。そういう事が人生ではままある。そういう意味で、才能を見つけ育てる人にも、スキルや能力が求められる。
師匠と弟子。
お互いがお互いでなくてはならない理由がそこにはきっとある。例えどれだけ歪つであろうとも。見えない絆が、そこにはあるのだ。
過去を考えすぎても終わりがない=生産性が悪い
脛に傷の無い人間は居ないと思っている。
誰にだって過去の辛い記憶はあるだろうし、トラウマだってあるだろう。ぼくにだって思い出したくない過去の一つや二つ。いや、三つ四つと、無限大に存在する。不意に思い出した瞬間、なぜか奇声を発してしまうし、夢にみたら起きた瞬間に枕を壁にぶん投げる。
それからその過去、黒歴史を出来るだけ無かったことにして、何も感じていないふりをして、また現実を生きていく。生きていかざるをえないのだけれど。
(*_*)
例えばぼくの抱える黒歴史には以下のようなものがある。
・○○○○しているところを親にみられた
・実家でこっそり録画していたアニメのことが、親にバレていた(あまり知られたくないジャンルのアニメだった)
・金田一耕介のドラマにはまり、場所を選ばず髪の毛をぼりぼりし、意図的に周囲にフケを飛ばすことに嵌まっていた
…………。
思い出すと無限大にぼくの精神ダメージが重なっていくだけなので、ここら辺にしておくけれど、もっともっとたくさんある。
その時にとった行動に関していえば、今でも後悔しているし、過去の自分に幻滅する。もしタイムマシンが実在するならば、その時々の過去へと戻り、黒歴史制作中の自分を殺害し、なかったことにするだろう(そして今の自分も消える)
しかしそれは現在の科学では不可能だ。
人はあたりまえだけれど、一秒前の過去にすら戻れない。常に進み続けて、スタート地点へ戻ることのない、ジェットコースターに乗っているようなものだ。走り出したら止まらない。徐行したり急降下したり、昇ったり曲がったりと色々だ。
人はいつか必ず死ぬ。
そこまでの過程を人生とするならば、経験した辛い事象(トラウマ)に対するアクションとしては、取ることの出来る行動はそう多くはない。と思う。
結局のところ、過去は絶対に変えられないのだから、気にしてもしかたがない。
忘れるか、過去の出来事に対する現在の印象を変えるかだ。忘れられれば、それは無かったことになるし、もし現在の印象を変えることに成功すれば、それは悪い思い出から良い思い出となる。デロリアンは現世には無いし、過去は変えられない。
それでも真面目な人は、過去を考えてしまうと思う。なぜそうなったのかを、分析し続けてしまうと思う。なぜわかる?
ぼくがそうだから分かるのだ。
しかし過去の要因をいくら探ったとしても、あくまでこれから。未来に生かすことしかできない。だから思うのだ。なぜ?より、いかにしてということを考えるべきなのではないかと。反省から一歩先へ。過去の分析で終わらず、だからこうしようという発想へ飛躍させる。過去を考え続けても、何も変わらない。終わりがない。それは果たして、気が狂っているのと、何が違うだろうか。
ぼくが言いたいのは、そう。
ただただシンプルに、どっちの生き方のが得っていうか、生産的かなっていう、それだけの話。
個人的におすすめな、高円寺で買える激安中華弁当【福龍門】の紹介
高円寺といえば、安くて旨い店が多いことで有名だ。とくにランチはいたるところに安くて旨い店がたくさんある。
むしろ多過ぎて困るぐらいだと思う。庶民の味方、いい意味であまりお金をかけることなく楽しめる町というか、そういう風に出来ている。
しかしぼくのように高円寺に住んでいると、あるていど通う店は決まってくる。最初こそ物珍しさでいろんな店に行ってみるのだけれど、それでもだんだん無意識的に店を選別していく。
今から紹介する店は、心の底からおすすめできる、めちゃくちゃ旨くて安い、ほんとに週3回は食べている弁当だ。
みて、この品揃え。
むちゃくちゃ種類が豊富なのだ。
しかもボリュームもすごい。ごはん大盛りでおかずも大盛り。蓋がはちきれんばかりに詰め詰めである。
店の名前は「福龍門」
高円寺駅を北口からでて、すぐのところにある。
お弁当の値段はなんと全て400円!
400円じゃあ、普通にこのクオリティかつ量の弁当は食べれない。格安すぎるにもほとがある。しかも、味も美味しい。濃いめの味付けがしてあって、ぼくを含めた男性らは絶対好きな味である。
400円でこの味かつこのボリュームというのは、ほんとうにそうそう無いレベルだと思う。コンビニでおなじだけ食べようとしたら、余裕で1000円はいく。それだけのクオリティかつ量が、この店の弁当にはある。
ランチもやっていて、これまた安い。
日替わりのメニューもあって、毎日来ても飽きないだろうとおもう。実際、毎日来てる人だっているだろう。
お昼に食べるものはすごく大事。大事だけれど、なかなか良い選択は難しいのが現実
だからこそ、それぞれみんな、自分が通っている店のようなものをみつけ、発掘するのだろうけれど、そういう意味で、ぼくはこの店を非常に推す。ここぞという時の一食!というより、日常の食事にかなりおすすめ出来る、普段の食事を少しだけアップデートしたいという人におすすめだ。
安くて旨くて多い。
それら以上に重要なことなんて、たぶん無いだろう。
西加奈子が好きすぎる【おすすめ紹介】
これは作家、西加奈子氏へのラブレターである。
ぼくが初めて読んだ彼女の作品のタイトルは、漁港の肉子ちゃん。
なんとも矛盾したようなタイトルなのだけれど、これは主人公の母親が、漁港にある焼肉屋で働いているからである。
本屋でその本を手に取った理由は、表紙の絵に惹かれたからだ。
なんとこの絵、西加奈子氏本人が描いているイラストらしい。
この本以外にも、たくさんの本の表紙を描く西加奈子の多才ぶりには、驚かざるをえない。番組で拝見した事もあるけれど、べしゃりも上手い。面白い。
器用貧乏というには、ひとつひとつの要素が高度すぎる。器用金持ちとでも表現しようか。器用で金持ち。最強である。
なにより美人なのがすばらしい。
ちょこちょこ髪型を変えているところを拝見するのだけれど、そのどれもが似合っていて、パズルがきっちり嵌まった時にも似たしっくり感を感じとる事ができる。
おすすめの作品を紹介
なんて見出しをつけてみたけれど、どの作品もおすすめだし、おすすめ出来ない作品がむしろ無い。どの作品も瑞々しく、そして想像力に富んでいて、何よりキャラクターが生き生きとしている。
それはすべての小説に共通する事項だし、西加奈子さんの書いたエッセイ「ごはんぐるり」にしても、主人公(つまりは西加奈子本人)のキャラクターというか性格がよく見える作品となっていて、これが彼女の書く作品の特色というか、特徴なのかなとも思う。人のちょっとした面白ポイントや、変な所を見つける、そして表現するのが上手い。それはつまり、すごく人に興味があるという事なのだと思う。
すべてが名作であるのは間違いないのだけれど、その中でも個人的にぼくがおすすめする五作をセレクトしてみた。
- 1・サラバ!
- 2・漁港の肉子ちゃん
- 3・炎上する君
- 4・ごはんぐるり
- 5・あおい
サラバ!
あらすじ(すべてAmazonより引用)
西加奈子作家生活10周年記念作品
1977年5月、圷歩は、イランで生まれた。
父の海外赴任先だ。チャーミングな母、変わり者の姉も一緒だった。
イラン革命のあと、しばらく大阪に住んだ彼は小学生になり、今度はエジプトへ向かう。
後の人生に大きな影響を与える、ある出来事が待ち受けている事も知らずに――。
以前このブログでも取り上げた事があるけれど、それでもやっぱり何度でも取り上げたい名作である。
みんな、それぞれで生きている。それでいい。圧倒的な肯定を綴る、西加奈子の柔らかで強靱な最新長編
肉子ちゃんと呼ばれる太った女性と、キクリンと呼ばれる聡明な少女、二人は親子だ。
果たして本当の意味で親子とはなんなのか、それを考える切っ掛けになる。でもシリアスすぎることもなく、笑える名作。
私たちは足が炎上している男の噂話ばかりしていた。ある日、銭湯にその男が現れて…。何かにとらわれ動けなくなってしまった私たちに訪れる、小さいけれど大きな変化。奔放な想像力がつむぎだす不穏で愛らしい物語
短編集ではあるのだけれど、一話一話の濃度は、長編のソレを変わらない。個人的な考えだけれど、短編集にはその作家の個性が出やすいと思っているので、西加奈子氏の作家性を感じたい人は、この本から読むのがいいと思う。
カイロの卵かけごはんの記憶、「アメちゃん選び?」は大阪の遺伝子、ひとり寿司に挑戦、夢は男子校寮母…美味しオカしい食エッセイ。
さっきまで紹介した作品とはうってかわって、エッセイ集である。作家西加奈子というよりは、人間西加奈子としての素顔が垣間見る事ができる。天才的な小説を書く人間は、案外庶民的で、普通の人だった。
27才スナック勤務の「あたし」と、おなかにへたくそな地図を彫っている3才年下のダメ学生・カザマくんは同棲して4か月。ゆったりとしたリズムにどっぷりと浸かった生活をしていた「あたし」は、ある日、妊娠していることに気づく。そして、気がつけば、長野のペンションへの短期バイトを決め、そのバイト先からも逃げ出し、深夜、山のなかで大の字になって寝っころがってしまう。そのとき、「あたし」の視野に、あるものが飛び込んでくる。
三編が入ったこの本、西加奈子氏のデビュー作である。著者本人が言うように、多少つたないところがあるのかもしれないが、それでもだからこそみずみずしく、デビュー作でこれが書けるポテンシャルには驚きを禁じ得ない。
結論・すべての本がおすすめだ
ここまで紹介しといてなんだけれど。
すべての本がおすすめだから、とにかく読んでほしい。そう、それだけである。
本を読み、世界を知り、想像して、世界観に浸る。それが小説を楽しむという事だと思うし、物語を楽しむという事だと思う。
そしてそれは、人生を楽しむということにも繋がってくるーーなんて思ってしまうのは、ぼくの考えすぎだろうか?
とにかく西加奈子氏はすごい。
たぶん小説の天才でもあるのだろうし、そして人生を楽しむ天才でもあるのだろうと思う。
ダイエットに成功しない人は、一度極端な事をやったほうがいいと思う
最近、すごく太った。
どのくらい太ったのかといえば、数字にして約十キロ。高校生のころと比べたら、もうシルエットが全然違うだろう。
それもこれも、ぼくが食べるのが好きだという事が原因である。あと、近所(中野)に大好きなラーメン屋(武道家)があるというもの大きいと思う。武道家は50円でライス食べ放題だからいつもいつだって食べ過ぎる。食べた後に後悔しなかった事なんて一度もないのだけれどそれでも少ししたらまた食べたくなる。ほんと、言い方はアレだけれど、麻薬でもはいってんじゃねぇのかと思う。それぐらい中毒性がある。
まぁそんなこんなで人生において何度目かのダイエット決意をしたわけではあるけれど、いままでほとんど成功したためしはなかった。なかったのだけれど、結果、初めて今回のダイエット、成功している気がする。
今のところ順調に体重は落ちてるし、このままのペースなら、一月で10キロぐらい減らせる予感がしている。すなわち一月で、太る前の体に戻れるということだ。魔法かよ。
ダイエットは、基本的に健康的に遂行されるのをよしとされている。無茶苦茶な食生活で一度だけ痩せたとして、リバウンドするのは目に見えているからだ。
しかし実際、一度でも痩せない事にはリバウンドはできない。
その、痩せるという事を経験するためにも、ぼくは一度極端なことをすることを推奨する。
たとえば、極端な食事制限とか
本来数ヶ月かけて健康的に進めるべきものをごく短期間でこなす事で、痩せるとはどういう事かというのが肌感覚でわかってくる。
スポーツでいえば、とにかく基礎練習を繰り返すより、とりあえず試合をやってしまったほうが、自分がなにをするべきか見えてくる。基礎練習をするのは、その後でいいと思う。基礎練習をやる必要性を理解する。なぜ健康的なダイエットでなければならないのか理解するために、極端な事をする。そして痩せる。その感覚を掴む。
それこそが一番重要な事なのではないかなと思う。
だからダイエットを始めようという人に対してぼくがまず提言するのは
三日間、何も食べるな
ということだ。そうすれば二キロは落ちて、痩せるという事がどういう感覚なのか、なんとなくでもわかるはず。