大学を留年した苦しみには、じき慣れる
大学を過去、数度留年した。
しかもぼくには浪人経験もあるので、同年代の人間と比べて色々と遅れているのは自覚している。
働き始める年齢とか。つまりはそういうもの。
ぼくのブログを読んでくれている数少ない読者さんの中には、過去留年経験のある人、もしくはこれから留年する人もいるかもしれない。
安心してくれ。
留年にはじき慣れる。
留年にはじき慣れる
留年が決まった直後、もしくは留年するかもという、そんな気配が感じられる進級数ヶ月前、自然と「死にたい、、、」と口に漏らすようになっていた。(この経験以来、死にたいはぼくの口癖だ)
留年の旨を親に伝えて、同級生は卒業していく、、。その時は確かに死にたいし、親からは卑下の目で見られた。
しかし、4月。
単位数の問題で、あまり学校に行く必要の無い一年間。つまり好きなことが出来るわけだ。
そういう考えに至った時、ぼくは「もしかしたら留年は幸福な事なのかもしれない」とそんな風に思うようになっていた。
留年は幸福なこと
どうせ人はいつか死ぬのだ。
若い頃の数年ぐらい、どってことはない。
むしろ数年好きなことが出来るぶん、得をしたいると、そんな風にも考えられる。
留年して得られるもの、それは時間だ。
時間がある、何をしてもいい。
バイトをしても、小説を書いても、格闘技を始めても、寝ても、ゲームをしても、インターンに行っても、恋をしても。それこそーー、無駄しても、いいのだ。
おばあちゃんが死んだときも、時間の経過で悲しみは薄れていった。
慣れとはつまり、そういうもの。
やっちまった後に、どう生きるか。
若い頃は、そう長くない。
……いや、何の慰めにもならないだろうけど。
とにかく、生きることを頑張ろう。