文章・小説が持つ再現性の高さについて
ドラえもんを、AくんとBくんに描いて貰うとする。
二人とも使うのはHBの鉛筆。
描かれるのは同一のキャラクター。
ふたりの前には、ドラえもんのモデルを置いておく。例えば原作43刊の表紙とか。
でも、描かれたドラえもんは、絶対に少し違ってくる。目の大きさとか、身体の大きさ、他にも色々と。
絵で、まったく同じものを書いたとしても、そこで再現性は発揮されない。絵とはつまり、そういうものだ。
しかし、文章は違う。
東野圭吾氏の小説を読みつつ、全く同じように模写する事は簡単だ。それが乙一氏でも、西尾維新氏でも、吉本ばなな氏でも、変わらない。
あ、と打てば、あと書ける。
純度100%の再現性。
つまり。
なにが言いたいかというと、ぼくは作家になれると思う。
書くべきは、どこまでいこうと、ただの文字なのだから。同じ人間、そこまで圧倒的な差があるとは思わない。
それが売れるかどうかはともかくとして、抽象化したそれぞれの作品の良い所をちゃんと理解して、自分の作品に生かす事が出来ればーー。物は出来上がる筈だ。
そう、問題は評価してもらえるか。
読み手に、人に、友達以外の第三者に。
自分が良ければそれでいいだなんて、そんな風にはぼくは思わない。