朝起きてからまずすること【書を捨てよ、町へ出よう】
は、当然洗顔や歯磨きなのだけれど、それ以外に、ぼくには習慣がある。
それは、その日の予定、こなす事を、頭の中でイメージする事だ。
午前中はこれをやって、午後はこれをして、夜はこれをやる……的な。
それをやる事で、めちゃくちゃだった頭の中の地図が、なんとなく整っていくのが分かる。目指すべき方向性、羅針盤が、曖昧に形を成していくというか、そんな感じ。
ただ、そこでポイントがあって、イメージはするけれど、イメージをし終わったら、それを忘れて、現実を生きるのだ。
そうでないと、想像に捉われて、実際の行動力が落ちる。
妄想や想像をしたまま、現実実際は、ベッドの中という事もままある。
だから、実際の行動をする時は、現実だけを見つめて、生きなければならない。
その塩梅が難しいというか……。ぼくは一番病んでいた二十代前半、この状態が非常に長かった。ずっと頭の中でうじうじと考えて、煮詰めて、掻き混ぜて。
それでも当然、答えは出ない。当然だ。家から出ないと、何も始まらない。
書を捨てよ、街へ出よう。
寺山修司氏も、そんな事を言っていた。
百冊恋愛の本を読むよりも、一回恋に落ちた方が、ずっと経験値は手に入る気がする。
辛い思いもするだろうし、幸福な気持ちも味わうだろうけれど、別に、それはそれでいいと思う。何より怖いのは、何も知らない事じゃないだろうか。
ただ、イメージ出来る事というのは、既に頭の中にある事だから……。
頭の中に無い、未体験の現状に遭遇した時、イメージから抜け出せていないと、反応が悪くなる。だからあくまで、今が大事。イメージしたら、それは捨てる。
そう、まさに。書は捨てる。
イメージは知識。書から発露されるもの。
雨の日、青藍という名前のカレー屋へ
高円寺にある、青藍というカレー屋に行った。
なんでもマツコ・デラックスが番組で絶賛したらしく、ネットで評判を見た感じ、相当に美味しいらしい。一時期カレー屋でアルバイトをしていたぐらい、ぼくはカレーが好きだ。
この日、東京は雨が降っていた。
なんでも台風が、日本列島の隣を通過しているとかしていないとか。
まぁ引きこもりには、あまり関係の無い話だった。
ぼくはこの日、高円寺に住む友人に声をかけ、その店を訪れた。
雨が降っているというのに、開店前のその店には、既に人が数人ばかり並んでいた。次いで並ぶ事数分、入店。
店内は、いかにも個人経営のカレー屋といった風情だった。
清潔感溢れるという感じでもないけれど、ぼくはこのぐらいのほうが好きだ。
卓上には、カレーの説明があった。なんでもスパイスに特色があるらしい。
少しして、友人の元へ先にカレーが運ばれてきた。
すぐにぼくの元へもカレーが運ばれてきた。
見た目はこんな感じ。
野菜がたっぷり入った、少しスパイシーなカレーだった。
見た目も華やかだけれど、食べて驚いた。
いや、ほんと。驚くぐらい、美味しかったのだ。
ほんと吃驚した。触感といい、味といい、めちゃくちゃ美味かった。
また絶対来たい。個人的には、高円寺NO1カレーの座をあげてもいいかなと思ったり思わなかったり。
雨の日は寝すぎてしまう
雨の日は寝すぎてしまう。
気圧のせいか、普段より日の光が弱いせいかは分からないけれど、普段起きる時間よりもずっと遅くに目が覚める。
目が覚めたところで、べつに身体は起き上がらない。起き上がる気もない。そんな元気が湧いてこない。
こういう時、うちの天井が雨漏りしていたらなと思ってしまう。昔のコントみたいに、降り注ぐ雨が顔面に直撃するようなことがあれば、これ以上なく自然に、目が覚めるに違いない。
ただ同時に不快でもあるだろうけど。
自然は常に一長一短。人にとってメリットがあるだけではない。ただそこにあるだけ。適応しなければならないのは人間のほうだ。
だからいつも、ぼくは思う。
人は無理をしてはいけないのだ。
頑張るのと、無理をするのは違うら、
頑張るのは、自分の出来ることをひたすらにやること。無理をするのは、これ以上は曲がらない角度に、間接を伸ばすこと。関節技と、柔軟体操ぐらい違う。そこを混同してはいけない。
無理をするのではなく、それをそういうモノとして受け入れて、それを前提に行動、思考する。だから大事なのは、記憶より記録。あくまで客観的な観測なのだろう。
まぁ、とどのつまり。
二度寝をすることに対しての、言い訳でしかない。
おやすみなさいー
【ドラゴンボール】孫悟空の魅力を語ろう
今更ながらドラゴンボールに嵌まっている。
原作も読み返したのだけれど、改めて悟空の魅力がやばい。いや、あれだけの人気漫画なのだから当たり前なのだけれど。
悟空のなにがいいって、強くなること以外には興味が無いことだ。
ぼくの考えるいい主人公、ヒーローの持つべき条件、資質には、欠損がある。
欠損があるーーだなんて、なんとなく矛盾しているような文章だけれど、そうではない。
あまりにも悟空は強くなりたすぎて、だからこそ、他の事はどうでもいい。
作中、本気でキレたのは、たった二回だけ。
クリリンが殺された時だけだ。
(タンバリン)
タンバリンと、フリーザにそれぞれクリリンは殺されている。その度に悟空は激怒して、タンバリンに対してはらしくもない「ぶっ殺してやる!」という言葉を吐き、フリーザに対してはスーパーサイヤ人になることで、打ち倒してみせた。
そう、厳密にいうならば、悟空は自分が強くなることと、クリリンのこと以外は、どうでもいいのだ。
クリリンは少年期から、ずっと一緒にトレーニングをしてきて、ほかのメンバーとは違う感情を抱いている感じがする。たぶん息子のことより、クリリンのほうが好きに違いない。
それはセルゲームのワンシーンにも現れている。
悟空はダメージを負ったセルに対し、あろうことかフェアじゃないとかなんとか言って、仙豆を投げ渡すのだ。(仙豆とは、どれだけダメージをおってても回復する、魔法のような豆のことだ。一粒たべればお腹いっぱい)
いや、、、。地球の危機に対して、悠長すぎるだろう。悟飯が倒せると自覚していたのだろうけれど、それでも確証なんかない。博打にもほどがある。セルに対して、Z戦士みんなで一斉にかかれば、わりと倒せる相手だと思うのだ。悟空一人でいい勝負が出来たんだし。それなのに、、、。強くなりたい、試したいという気持ちが強すぎて、悟空はもはや、常人の神経じゃない。まともじゃないのだ、どう考えても。
だからこそぼくは思う。やっぱり孫悟空は、最高のキャラクターだと。
それほどまでに強さを求める、、、。
少年漫画の王道ではあるものの、やっぱり少し変わったキャラだと思う。タイプでいえば、HUNTER×HUNTERのゴンに近いのかな。
善悪より、好き嫌い。
また戦いたいから、トドメはささない。
結果勝手にーー地球は救われる。
地球を救ってやろうだなんて、ほんとは全然思ってないんじゃないだろうか?
だからいい。恩着せがましくない。あくまで強いやつと戦うという目的の副産物として、地球の平和がついてくる。
そのぐらいがいいのだと思う。
というより、好きだ。
歩道橋の上でガリガリ君のチョコミント味を食べた時、人は何を思うのか
予定のない日の夜。あてもなく街をブラつく。ほんとうはやらなければいけないこともいっぱいあるのだけれど、億劫でなんとなく手につかない。そういう時、人は視野が狭くなっているのかなと思う。やりたいことはないけれど、やらなくてはいけないことはある。悲しき現代人。窮屈なのだ、なんとなく。雲の上の誰かから、ああしろこうしろと、常に指示を出されているような感じ。たまには反発したくなる。目的もなく徘徊したくなることだってある。あえて退屈に揺られて、羅針盤の壊れた遭難者のように、目的地も、未来も見えないまま、フラつきたい夜だってある。
そんな時に見つけたのがこれ。
カロリーは130キロ。
ライス100グラム分ぐらいかな。
まるで夏のような暑さから逃げるために入ったコンビニで、運命的な出会いだった。
歩道橋の上で、環七を走る車を見ながら食べる。うん、美味しい。チョコミント味ってあたりはずれが大きくて、はずれるとまるで歯みがき粉そのものを食べているような感覚にさせられたりもするのだけれど、これはそんなことなかった。
食べていると、少しだけ風が涼しくなったような気がする。気持ちも少しだけ楽になった。色々やらなければいけないこともあるけれど、今はただ、ガリガリ君が美味しければいい。そんな風に思った。
鉄鍋ぎょうざ「なかよし」で食べた餃子が絶品だった
JR高円寺駅から、ルック商店街を抜けたところにある鉄鍋ぎょうざ「なかよし」
どうも同行した友人によれば博多名物らしい。
入店したら、予約の有無を聞かれた。
基本混雑しているのが当たり前で、その日は行列は出来てなかったけど、それが珍しいぐらいらしい。
正直、餃子なんてどこで食べても一緒だと思っていた。王将も満州も好きだし、なんならセブンの冷凍餃子が一番旨いと思っているくらいだ。
席に座る。となりには家族連れ。子供が元気にはしゃぎ回っていた。自分にもあんな頃があったっけなーとか考えたりもしたけれど、いや、やっぱなかった。昔から妙に落ち着いた子供だったと、そんな事を思い出した。
注文してから、十数分。料理が運ばれてきた。
うーん、旨そう。
狭い鉄鍋にぎゅうぎゅうに詰められていた餃子のサイズは、一般的なソレよりワンサイズ小さい。食べようと思えば一口で食べれるサイズ感だった。
醤油とお酢とラー油を小皿に取って、そして餃子につけてから口へ運ぶ。
そしてびっくりした。
その食感は、はじめての経験だった。
パリパリには違いないのだけれど、なんだろう……。妙にプリっとしていて、噛んだときの食感に病みつきになる。
トマトも美味しかったし、値段もリーズナブル。
こういうお店って、いっぱいあるんだろう。知識は選択肢。たくさん食べて、たくさん知りたい。
ぼくはまだ高円寺を知らない。
リトルケイブ【高円寺】でボードゲームを楽しんだ
友達と二人、ボードゲームカフェにいった。名前は「リトルケイブ」Little cave
場所は高円寺駅をでてすぐのとこにある。
日によって値段は変わる。
この日は一時間1000円。
フリータイムなら、3000円とか。
平日はもっと安い。平日のフリータイムを選ぶのがコスパ的には最強かも。
数百種類のボードゲームが楽しめる。
【ガイスター】
ルールはシンプル。説明するのはめんどいから省くけど、一見さんのぼくでもすぐ理解できた。
ドリンクは持つ部分にゴムが巻かれていて、滑らない。ストローも固定されていて、中身がでることがないようにされていた。さすがボードゲームカフェ!
普通に料理も美味しそうで、ボードゲームしなくても寄りやすい感じだった。ルールの分からないボードゲームも店員さんが説明してくれる。なかなか取説を読まない(読めない)ぼくにはありがたい。
一人でも来やすいだろうけど、二人以上がベストかな。一緒にいった人とプレーするオア他の卓に混ぜてもらうスタイル。二人でも十分楽しめるし、デートとかに使うのもいいかも。
大雨の日に行ったのに、店内はなかなか盛況だった。大雨の日だから多かったのかは分からない。
普段テレビゲームばかりだからかなり新鮮だった。一緒に行った友達も、「別世界を開拓した」と言っていた。たしかに新鮮。また来たい!
大勢できたいなと思ったけど、そんな友達多くなかった^^
ファミリーマートのもちっと食感の汁なし担々麺が激ウマな件について
タイトルつけてから、アフィサイトみたいな題名だと思った件について。
はい、さて。
この前食べた、ファミリーマート汁なし担々麺が死ぬほど旨かった。
正式な商品名はもちっと食感の汁なし担々麺。
値段は税込みで248円。
冷凍食品。関係ないけど、最近冷凍食品ばかり食べてる。身体が心配。いやー、ほんと最近の冷凍食品はレベルが高くて高くて。めんどくさがりのぼくには最適っちゃ最適。
袋を空けるとこんな感じ。
逆面を表にしたらどうなるのだろうと思った。もしかして飛び散る?
花椒の袋。そうとうに辛いと書かれているが、さてどうなんだろう。
500wで七分ほど。
人狼をやって待つ。
最近人狼judgmentというアプリを死ぬほどヤっているぞ。
出来上がり。皿に入れて、花椒をまぶす。プラス胡椒とか一味とかいろいろ用意した。
味の評価
旨い!そして案外ボリュームあっていい!
辛味はまあまあ。個人的にはもっと辛くてもいい。追加で一味をトッピングした。あれ、ぼくの舌が馬鹿舌な可能性があるような?
ちょっと高い感じもするけど、これ一食で済むと思えば安い。コスパもいい。また今度食べようと強く思った。いや、ほんと美味しかったからオススメ。
【高円寺】で食べる【くじら】の【カレー】
最近出来た、新しい友達に誘われて高円寺のカレーBAL、くじらへ。
JR高円寺駅を北口からでて、徒歩二分もかからない。松屋横の、少し怪しい通りを進んだ先にある。
色んなお店が入った、どこか異文化交流チックなお店の並び。こういう店が普通にあるのが高円寺という街の良いところだと思う。
やや狭い店内に二人座り、ぼくはチキンカレーを注文。最初はMサイズを注文したら、店員さんから「男性には少し少ないです」といわれて、Lサイズへ変更。食べきれるか不安になる。値段は950円。
お通しでキウイとパクチー。
写真は撮り忘れた。味は独特。
結構待ってから、商品が到着。
こんな感じ↓
米がタイ米?で、パラパラだった。カレーはやや水っぽくて、いい意味であまり日本ぽくはない。中辛で、ややぴりっとしたけど、ぼくとしてはもっと辛くても良いかと。
味は好みだった。コクがあって美味しい。チキンカレーなのでチキンが入っていた。友人は皮が好きではないらしいので、ぼくが替わりに食べる。美味しかった、普通に。量はLでちょうどよかった。ルーに対して、少しライスが多いような。これはぼくの塩梅か。
感想としては、BALというぐらいなので、飲みながら食べる店なのかなと思った。ぼくも友人もお酒を飲まなかったので、少々物足りなさはあったかもしれない。
不思議と居心地はよく、二時間ぐらい話し込んでしまった。GW最終日。楽しい高円寺の夜だった。
世界は物語で出来ている
物語には、無限の可能性があると思っている。
ぼくなりの物語に対する考え方、捉え方をここに書き記したい。
世界の全ては今へと至る物語
考えてもみてほしい。
例えば日本史や、世界史。
中学校や高校で勉強するそれらは、物語以外の何者でもない。なにがどうなって、文明が成立したのか、それを客観的にとらえ、心情的な部分を削ぎ落としたものが、歴史である。
ドラマとは心の動き、葛藤のことである。
例えば今朝の話だが。
1,ぼくが目を覚ました。空腹
2,空腹だから朝ごはんを食べようと考える
3,パンか米か迷う⬅コレがドラマである。
結局パンを食べたのだけれど、これがいったり物語でなくてなんだろうか。
つまり歴史とは物語であり、物語をようくみてみれば、そこにはドラマがある。
ぼくが生まれた時にだってドラマはあっただろうし、両親が生まれたときだって、それはあったはずだ。
今を生きるぼくらは、ギリギリのバランス感覚で、物語で積み上げられた過去の上に立っていて、立ちながらも未来への物語を積み上げている。
だからみんな、物語からは目が離せない。
なくてはならないものだから。
つまるところ物語の中で、ぼくらは今生きているから。
映画や小説、漫画やドラマ。
それらが無くなることはないだろう。
物語メディア は形こそ変えるかもしれないが絶対に残り続けると断言出来る。
だからぼくは、小説を書くのだ。